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【アラベスク】  第19章 朝靄の欠片



第3節 異郷のVega [11]




「わかったよ。言わねぇよ」
「ホントかなぁ?」
「っんだよ、信用できねぇのかよ」
「できないなぁ。お酒呑んだ勢いで誰かにしゃべっちゃいそう」
「なんだよ。だったら俺になんて言わなきゃいいだろ」
「だって、言えって言ったのはアンタじゃん」
「それは、そう、だけど」
 だって、どうしても気になって。
「言わねぇよ。絶対に」
 そんな栄一郎の顔を見上げ、早苗はだがまだ納得のいかないような顔をしながらも、笑顔でクルリと背を向けた。
「じゃあね」
「あぁ」
 遠ざかっていく背中を、ただ黙って見つめていた。
 俺とアイツは、いったいどういう関係なんだろう。どういう関係で、これから、どうなっていくんだろう。
 これから。
 自宅の自室で、ただ一人、ベッドにゴロンと仰向けになって考える。
 俺は社長の御曹司で、アイツは単なる労働者。それがきっと、この先もずっと続いていくのだろうか? それともいつか、アイツは故郷にでも帰るのだろうか? 家族が大事だと言っていた。いつかは親元に。いや、親元じゃなくって、いつかはどこかへ嫁いで。

「姉さんの縁談もようやく決まったところだし」

 アイツにもいずれはそんな話がくる。その時俺は。
 胸が苦しくなる。
 労働組合を作って、会社と交渉して。
 そんな事が、本当に自分の父親の経営する工場で起こるのだろうか?

「私、会社のやり方には不満はある」

 じゃあ、その不満を消してやればいいのか?

「工員など、女工など怠ける事しか考えていないただの愚民だよ」

 やれ賃上げだのやれ休ませろだの、巷で耳にする労働者の要求など、単なる我侭にしか聞こえない。
 金が欲しければ汗を流して働けばいい。それが当然だと、栄一郎は思う。

「アンタに話したって、わかんないだろうけど」

 わからない。労働者の要求など、栄一郎には理解ができない。できないけれども。
 女工の腕の蒼い痣。仲間に見守られて棺に入れられた若い少女。
「工員の言ってる事になんて耳を傾けちゃ駄目よ」
 母は言う。
「学も無いのに悪知恵だけはしっかり身に付けてるんだから」
 何が真実で、何が嘘?
 馬鹿、何悩んでんだよ。俺には関係の無い話だろ?
 そうだ、自分には関係の無い話だ。組合なんて、労働運動だなんて、ストライキだなんて賃上げだなんて、そんなものは自分には関係無い。自分にも、そして早苗にも関係の無い話だ。俺たちには何の関係も無い事なんだ。ただ俺は、早苗がいつまでも工場で働いてさえいてくれればそれだけでいい。
 そうだ、それだけでいい。それでいいんだ。きっとずっと、このままの世界が続くんだ。
 続けばいい。
 混乱する頭を抱え、栄一郎はいつしか眠りに落ちていた。
 このままの二人で。
 だが、そんな世界がいつまでも続くわけがない事を、栄一郎は思い知らされる。
 早苗の口から組合なんて突飛な言葉を聞いてから十日ほど経った頃だったと思う。大学の仲間と呑んで帰ってきた、夜遅くの事だった。
 自宅の入り口に人影が揺れている。一人だ。ハッキリとはわからない。不審に思って近づくと、シルエットから女性である事がわかった。
 早苗か?
 いや、だが髪型が違う。
 こんな夜中に、こんな暗闇の中で女が一人?
 女性とはいえ明らかに怪しいのは事実。それなりに警戒しながら声を掛けた。女性は驚いたように飛び上がり、だが相手が栄一郎だと気付くと勢いよく飛びついてきた。
「お願いですっ」
 まずそう一言。
「サナちゃんを、山脇早苗さんを助けてください」
「え? 早苗?」
「サナちゃん、このままじゃ殺されちゃう」
 尋常ではない言葉に、栄一郎の背中に悪寒が走った。季節はそろそろ冬を迎えようかという頃だった。
 翌日、早番であがった早苗を呼び出した。
「その耳の傷、どうした?」
「仕事中に転んで機械にぶつけた。職制に怒られちゃって」
「嘘付くな」
 ヘラヘラと笑う早苗の言葉を強引に遮る。
「嘘じゃないよ」
「昨日の夜、何があった?」
 早苗の表情が強張(こわば)る。神社の石段で、少し離れて並んで座る早苗の肩が小さく震えた。もうすぐ陽が落ちようとしている。
「言え」
「別に、何も」
「俺は気が短い。話したくなるまでジッと待っていられるほど、気は長くはない」
「だから、別に何も」
「昨日の夜、お前と同室だっていう女が俺んトコロに来た」
 風が吹く。
「お前が殺されそうだと言っていた」
「何を大袈裟な」
 笑顔が引き()る。
「何があった?」
「別に、何も」
 手を伸ばし、早苗の小さな顎を掴む。
「俺は気が短い。サッサと吐け」
 強引に上向かせた顔の、左の口の端が切れている。瞼も腫れている。
「組合作りの中心になってる奴らに、殺されかけただろ? 中心になってる女は、確か川端って名前だったか?」
「殺すだなんて、そんな大袈裟な」
「髪の毛引っ張られて、畳の上を引き()り回されて、手ぬぐいで手首を縛られて水の入ったタライに顔突っ込まれて」
 微かに早苗の唇が震える。
(ほうき)の柄で叩かれて、服を破られて下着一枚で外に放り出されたんだろ。昨日は冷えた。また熱でも出てんじゃねぇのか?」
 言って、もう片方の手を額に当てる。
 話を聞いて、栄一郎はすぐにでも女子寮へ向かいたかった。話し声に気づいた母が家から出て来なければ、助けに行けたかもしれないのに。
 自宅の前で女工と向かい合う息子に露骨な不信感をみせた母をどのように説得すればよいのか、咄嗟には思いつかなかった。だから結局は一度自宅へ戻らなければならなかった。問い質してくる母をなんとか追い払い、自室へ戻ってようやく家を抜け出した。女子寮へ駆ける栄一郎を待っていたのは守衛だった。
「女子寮でのモメ事でも聞きつけて来たんですか?」
 頭を下げながら口元をニヤつかせる男。
「どけよ。急いでるんだ」
「あの女工でしたら、もう大丈夫ですよ」
「何?」
「職制が騒ぎを聞きつけて事を収めたそうですから。外へ放り出されていた女工も、今はもう部屋へ戻っていますよ」
 それでも納得できず敷地へ入ろうとする栄一郎を守衛が制する。
「申し訳ありませんが、今はもう深夜です」
「それが何だ。工員は働いてるんだろう?」
「ここは女子寮です。こんな深夜に入っていけば、またどんな噂が立つかわかりませんよ」
「何が言いたい」
「栄一郎様が割って入れば、むしろあの女工の立場は悪くなる一方だと申し上げているのです」
 出しゃばった物言いだとは思ったが、唇に力を入れただけでグッと堪え、女子寮に勢いよく背を向けて帰るしかなかった。守衛の言葉を信じたわけではないが、彼の言葉が胸に刺さって、強引に乗り込む事ができなかった。
 栄一郎様が割って入れば、むしろあの女工の立場は悪くなる一方。
 俺? 俺のせい?
「熱は無いみたいだな」
 良かった。
 額から手を離す。
「なぜそんな事をされた?」
 早苗は視線を落とした。唇が震える。少しひび割れてかさついたそれが、本当はもっと柔らかくて心地良いことを栄一郎は知っている。
「言え。言わないのなら、俺がヤツらに直接問い詰める」
「そんなコトはやめろ」
 責めるというよりも、懇願するかのような口調。
「お前は、出てくるな」
「なら言え。さっさと吐いちまえ」
「スパイなんじゃないかって」
「は? スパイ?」
「私の事、会社側のスパイなんじゃないかって。工員の動きを探って、アンタを通して会社に情報を流してるんじゃないかって」
「何でお前が?」
「私がいつまでも断ってるから」
「組合作りに参加しろって話か?」
「うん。それに、アンタを取り込めって話も」
 早苗の視線の先で、落ち葉がカサカサと流れてゆく。
「会社からの妨害が酷くなってるの。この間、六人のうちの一人が男三人がかりで寮から連れ出されて、そのまま実家の中津川に帰された」
「それって」
「会社は、なんとしても組合の設立を阻止するつもり。外部との接触も監視が厳しくなって、電報なんかは全部寄宿係りが内容をチェックしてる。お茶やお花のお稽古にも尾行がつくようになって、安心できるのはトイレくらい」
 尾行って。
「組合作りが難航していて苛立ちもあって、それに、年下の私が誘いを拒否してるってのが気に入らないってのもあるんだろうし」
「それで裸で追放かよ」
 耳の下の痣が痛々しい。カサついた唇が哀れだ。どうして、こんな。
「お前、辞めろよ」
「え?」
「工場辞めろ」
「は? 何言って」
「辞めろ。辞めて、あんな寮なんて出ろ」







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